写真と小説のイメージを重ねた【名著と写真】のキャプション追加しました!
考えてみれば、小松左京の「物体O」だ!と思いながら撮った写真とか、極楽の蓮池のような美しい蓮の写真には「蜘蛛の糸」の冒頭とラストのシーンなども重なります。
「もうひとつの世界」というテーマから、いろんな本のタイトルも思い浮かびます。
そこでまずは、本のイメージと直結する写真から【名著と写真】と題して解説の短文を写真横に展示してみました。それをこちらのブログにも掲載します。
写真展は今週いっぱい。ぜひ足を伸ばしてみてください。
【名著と写真①芥川龍之介「蜘蛛の糸」に感じる違和感と蓮池の美しさ】
有名な「蜘蛛の糸」。冒頭とラストで、お釈迦様が独り極楽の蓮池のふちを歩いている。そして、その釈迦を描写する芥川の表現がずっと気になっている。まず冒頭・・・
「お釈迦様は極楽の蓮池のふちを独りでぶらぶらお歩きになっていらっしゃいました。」そして、ラスト「お釈迦様は(中略)またぶらぶらお歩きになり始めました。」
蓮池の蓮も再び地獄に落ちたカンダダのことなどに少しも頓着せず、いつもどおり美しく揺れている。
お釈迦様の歩く様子に、芥川はなぜ「ぶらぶら」という擬態語を使ったのか?
仏にとって地上の我々のことなどぶらぶら散歩ついで、気まぐれで気にかける程度のものなのか…?
通常の解釈では、カンダダのエゴイスティックな振る舞いで蜘蛛の糸は切れたことになっているけれど、この「ぶらぶら」という表現から感じられるのは、善行を施していれば極楽へ行けたはずという分かりやすい生活訓などではない。
超然として完璧な仏の世界は決して私たち俗人の世界と交わることはないという非情な事実。世の中には決して交わることのない「もうひとつの世界」があるという現実ではないのか。美しいものを眺める時に感じる手の届かない悲しさ、手を伸ばそうとする愚かしさ。本当に悟りなど開けるのかという疑念と絶望。そんな俗人の絶望を前にしても、極楽の蓮池は超然と美しい。
この不忍池の蓮の写真、フィルターも使わず何の加工もしていないのに、まるでCGみたいに見えるのは、極楽の蓮がそもそも超然としているからなのかもしれない。そして、そうであっても私たちはやはり、そんな蓮池の美しさに憧れるのである。
以上が写真横に掲載した文章です。
ほかにも不忍池の水面に展開する多数の「もうひとつの世界」を展示中。
ぜひおいでください!
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