2020年6月16日火曜日

山本太郎 東京都知事選出馬に意味はある

山本太郎が都知事選出馬を決め、やっと「東京五輪中止」という言葉が政治の俎上に上がってきた。多くの人が心に秘め、仲間内では口にしながら、なかなか公では口にできなかった言葉だ。
山本太郎の出馬については、私のタイムラインでも「?」の声が思いの外多い。野党統一候補ではなく、れいわ単独で出馬することへの懸念を示す記事も多い。しかし、この出馬会見を聞けば、やはり山本太郎が出馬してよかったと思えるはずだ。
私には今回の彼の出馬は当然に思える。というのも、このコロナな日々の中、私はずっと、あるもやもやとした口惜しさのようなものを感じていたからだ。そのもやもやした口惜しさとは「このコロナ禍の中、国会の予算委員会に山本太郎がいないもやもや」である。
今回のコロナ禍で、緊急事態宣言の影響を受け、政治に翻弄されることを実感した日本国民の多くがインターネットで中継される国会や、総理、閣僚、専門家委員会の会見に釘付けになった。テイクアウトの弁当を受け取りに行った飲食店で店のスタッフがパソコンを開いて安倍総理や小池都知事の会見を隅から隅まで聞いている姿にも出くわした。ここまで人々が真剣に、目を皿のようにし、耳をそばだてて会見をチェックしていたことはこれまでになかっただろう。そして、それだけ政治に人々の注目が集まっている時に、山本太郎は国会にいなかったのだ。
去年の参院選の時には一旦議員でなくなることはある意味彼の戦略だったかもしれない。自らが参院議員を辞めることで、れいわ新選組の2人を当選させ、自らはのちの衆院選に出馬して当選する。しかし、新型コロナウイルスのせいで、衆院解散は先の話になってしまった。
この半年、世の中は新型コロナ一色。れいわ新選組もいち早く「真水の100兆円経済対策」を打ち出したが、日々、国会で繰り広げられるコロナ経済対策の論戦に山本太郎の姿はない。彼が国会にいて、ほかの議員と比べ物にならないパワフルな言葉を政府に投げかけていたら、多くの人がその姿を目にして、消費税減税の話ももう少し盛り上がっていたのではないか・・・。コロナ以前から貧しかった弱者への給付に対する注目ももっと集まっていたのではないか・・・。山本太郎が国会議員でなかったばっかりに、コロナをきっかけにもっと注目されてもよかったはずの政策が中途半端に終わってしまっているのではないかと思うのだ。
そして、山本太郎にとっても、れいわ新選組の「弱者を守る」政策を最もアピールできたはずの「コロナ国会」で、リングに上がる権利なく、場外でセコンドになることさえできず、その間、地方キャラバンさえできなかったことは、虎視眈々という言葉さえ虚しくさせていたに違いないのだ。
ほとんどの政治記者は「小池圧勝」で、都知事選に対する興味を失っているようだ。「女帝小池百合子」という強烈な本が話題となっても、小池圧勝は揺るがないと踏んでいる。
そこでさらに、宇都宮氏と票を割る山本太郎の登場。
野党はまた一本化できなかったのか・・・。
その落胆は政治記者のみならず、一般の都民の多くも感じているところだろう。
しかし、山本太郎にとって、一本化できないことは自らの出馬にとってそれほど大きな問題ではないのではないだろうか。都知事選に立候補することは、現時点での彼にとって最も政策をアピールできる場を得ることだからだ。それを世間への露出を失った山本太郎の焦りと考えるメディアもある。
焦ることは勝負においては良くないことだが、私には山本太郎が焦って、露出を増やすべく都知事選に出馬するだけであるわけがないと思う。焦りというより、これ以上の政策アピールの場はないと考えた結果だろう。
小池氏の圧勝が伝えられ、ただでさえ都知事選は盛り下がりそうだった。しかし、東京にはコロナ第二波、まだまだ不十分な経済対策、東京五輪をどうするかなどなど難題が山積みで、本来ならば大注目すべき選挙である。都民を覚醒させるためには注目候補が必要だ。それも、最有力候補とは違う世界観を示せるものでないとダメである。そう考えた時、それは自分しかいないと判断したのではないだろうか。
多くの人々が「もう来年の東京五輪も無理だよ」と口にしているけれど、多分、小池氏は来年の東京五輪が中止になった場合のその後の経済の処方箋を示すことはしないだろう。しかし、山本太郎は「東京五輪中止」を掲げている。当然、その場合の処方箋を考えているはずだ。それを聞くのが楽しみだ。
今回の都知事選の最大の争点とはなんなのか?
もちろん、経済対策と第二波への備えを両立するコロナ対策であろうが、それは誰が知事になっても大差なく対応するわけで、対立軸となるのは
「東京五輪をどうするのか?もし中止になった場合、どう対処するのか」ということだろう。そこが浮上するだけでも山本太郎が出馬する意味はある。
●東京から消費税0を訴えよう
●弱者に対するさらなる給付
●コロナを災害指定にしてホームレスになりかけている人に一時避難所を作る
そのほかにも、山本太郎が訴えることで人々を覚醒させる可能性は山ほどある。
コロナと直接関係なくても、コロナによって、未来の社会のあり方への考え方は変わったはずだ。
●政府と東京都が進めようとしている
「東京の金融センター化」をどう考えるのか
●首都圏にカジノを作ることの是非
東京都政での経験は、次の国政につまり、ポストコロナの国の形を考えていくことにも直結するはずだ。
ポストコロナな時代において、もっとも変わっていかねばならないのは東京である。これからの東京がどうなるかで、日本のあり方も変わってくる。そんな大事な時に、小池圧勝というムードで、政治への無関心を助長してはいけない。都知事選告示の翌日、6月19日に東京のすべての自粛要請が解除され、普通の生活に戻れるムードになった時だからこそ危ないのだ。
山本太郎が万にひとつも都知事に当選すればそれはそれで良し。落選しても、これらのことが大小のメディアに乗り、人々の意識に刻みつけられればそれだけでも価値はある。もし、山本太郎が出馬しなければ、選挙戦への注目度は下がり、本来語られるべき、東京の問題点や政策が埋もれてしまう可能性が高いのではないかと思う。
出馬会見の中で山本太郎が言っていたが、「勝ち負けではなく、政策提案という意味でも選挙に出る意味はある」と宇都宮氏も語っていたという。
山本太郎が都知事になったら国政に打って出られないじゃないかという人もいるだろう。
今回、野党統一候補を蹴って、れいわ単独で出ることは野党からの信頼を失い、今後、国政に出る時に手を組む相手をみすみす捨てるようなものだと政界での力学を説く記事もある。
しかし、今ここで、国政への挑戦を待って、みすみす大きなアピールのチャンスを逃すことは、先の国政への期待さえも萎ませてしまうのではないかという気がしてしょうがない。
たしかに、政界の力学を無視することは、結局はお膳立て社会である日本においては致命的なのかもしれない。正論だけでは世の中は乗り切れない。けれど、山本太郎はあくまで有権者の望むものという方向を向いているだけだ。
もちろん、どちらが正解かはわからないけれど、今という時が、何か大きな時代の転換点であることだけは間違いないだろう。
話は変わるが、今日、新型迎撃ミサイルシステム「イージス・アショア」配備計画の停止が発表された。安倍政権がレイムダック化する中、何かが変わり始めている。
そういう転換期にどういう選択をするか、運も含め、その人の持っているものが問われる時だ。山本太郎の選択が吉と出るか凶と出るかはわからないが、都知事選を経て、私たちの暮らしが少しでも豊かになる方向に進むことを祈っている。
私もこの夏、このところ続けてきた生活を変えようとしている。不安はいっぱいだが、今は変化の時代なのだと考えると、こうしたニュースが自分の背中を押してくれているような気もして、ちょっと力が湧いてくる。