2022年9月11日日曜日

生まれ故郷の町おこし①〜「思い出の風景」からはじめる町おこし

故郷の町おこし案について本格的に書き始めようと思っている。

以前、「生まれ故郷の町おこし」として書いた文章に重なる部分もあるが、ここを1として、一般論としての「地域振興」についても考えていきたい。
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18歳で故郷の愛媛県八幡浜市を離れ、東京で暮らすようになってはや37年。八幡浜で過ごした倍の時間を東京で過ごしたことになる。そんな私がいまさら故郷の町おこしをやりたいといって、ここ40年近く故郷を離れていた人間に何ができると言われてしまうかもしれない。しかし、やはり私は故郷の町おこしに挑戦してみたいと思っている。
 
よく言われることだが、遠く離れていたからこそ見えてくる地元の良さというものもあると思う。それに、同じ離れているにしても、私には都会のコンサルの人々には持ちようもない、この土地での「思い出」がある。
今になって思うことだが、その「思い出」はずっと私のベースにあって、今も東京で考えること、やろうとすることの根底には、常に子どもの頃に感じていた好奇心や感動や笑いや心地よさのエッセンスが沁み込んでいる。火鉢カフェという発想や私がやりたいと思う寺子屋の形などはまさにその頃の思い出が元にある。
何十年もの間、都会の暮らしに揉まれても、いまだ消えずに香る生き方のエッセンスのようなもの。そこには故郷の良さが凝縮されているはず。
それを取り戻すことこそ、現在の故郷にとって必要なことなのではないのか・・・。そうした自分の中での仮説を立証したくて、今更ながら故郷の町おこしに挑戦してみたいと思うのだ。
 
故郷を離れてから40年。
バブルを過ぎ、失われた数十年が続き、金融経済の台頭とグローバル化の中で、「お金」が世の中の価値観の中心となるにつれ、私が子どもの頃に体験した故郷の「思い出の場所」や「思い出の風景」は、廃墟となったり、休館となったり、存在自体がなくなったり、市民の日常の中で見向きもされず、活気のない存在となり果てている。
 
時代は変わるといえばそのとおりだし、そういうのをセンチメンタルなノスタルジーだと切り捨てる人もいるかもしれない。しかし、子どもだった1970年代に私が足繁く通い、一枚の写真の如く記憶に焼き付けられている場所のことをあらためて思い出してみると、それは今現在存在している新しい施設や場所よりも居心地が良く、まさにキツイ時代の今こそ、新たな心地よい居場所として復活してほしいと思えるものばかりなのだ。
 
例えば、私が子どもの頃に通っていた八幡浜市の旧図書館と旧児童館。これが素晴らしかった。
旧図書館は2階の踊り場に作り付けのベンチがあって、その脇にある大きなガラス窓からは柔らかい光が木造の床に降り注いでいた。狭いながらもテラス席があったり、ガラスと木をうまく融合させた建物は文化的な空気を醸し、子ども心にいい建物だと感じていた。児童館は山の上の中学校に行く中腹にあり、サンルームのようにガラス窓に囲まれた広い遊戯室からは市内と港が一望できたはずだ。確かこの遊戯室は畳敷で、周囲を低い本棚が取り囲み、私はそこに置いてあった週刊マーガレットや少女フレンドを読むために足繁く通っていたのだが、見晴らしと日当たりの良い畳敷の部屋に寝転んで漫画を読むのは至福の時間であった。当時は見晴らしの良さなど気にしていなかったかもしれないが、それは心地よい記憶の中に無意識に刻まれた。
 

旧児童館 2020年撮影

私はなんて素敵な公共施設で子どもの時を過ごさせてもらったんだろう。
文化的な空気が漂い、地元の風景を感じられる場所ということが、そこに住む者にとっていかに必要で、それが地元への誇りや愛情を生むことを、私はこうした子どもの頃の体験から理解したのだと思う。この思いは、さっきも書いたように、心地よさのエッセンスとして心の奥深くに刻まれ、東京にやってきてどんな素敵な場所や施設に出会っても変わらなかった。
 

しかし、それもそのはずなのである。
私のお気に入りだったこの旧図書館と旧児童館は、同じ市内にあり、木造モダニズム建築の傑作として、木造建築としては戦後初めて国の重要文化財に指定された「日土小学校」を設計した建築家・松村正恒による建物だったのだ(児童館については詳細不明)。松村はこれらの建物を建てた時、八幡浜市の職員。その建築は高く評価され、1960年、文藝春秋誌上で発表された「建築家十傑」に選ばれており、市内には学校の校舎を中心に多くの松村設計の公共施設が造られた。私は知らず知らずのうちにそうした建築物に囲まれて子ども時代を過ごしていたのだ。

しかし、それらの建物が松村正恒という人の設計であることを知る市民は少なく、日土小学校の建築的な価値も認められ始めたのは21世紀になってから。国の重要文化財となったのは2012年のことである。

ただ、この重要文化財認定で、市内にある松村が作った建物の価値も少しは見直されるようになったようで、だからこそ、多分、老朽化した旧図書館も旧児童館も解体されずに残されているのだと思う。旧図書館は松村正恒記念館として再生させるという話も聞いた。しかし、市の財政難のせいなのか、いつまで経っても旧図書館の扉は暗く締め切られたままだ。
 
私が故郷で暮らした子ども時代(70年代~バブル前まで)、家にお金はなかったが、日々の暮らしの中に「お金とは無縁な豊かさ」はあった。その多くは文化的なものであり、ちょっとした自然とのふれあいであった。その一つの例が、上記した旧図書館と旧児童館での思い出で、私の記憶の中にはそうした「豊かさ」が「思い出の風景」として深く刻まれている。
 
しかし、私たちはバブルとグローバル化の時代を経て、それらの多くを失った。そして、それを失ってしまったがために、私たちは21世紀の今、生きづらさと将来への不安を抱え、自分の故郷の日常の中に点在する豊かさを感じることができず、地域の活性化のために動く気力も生まれず、地方はどんどん疲弊してしまったのではないだろうか。
 
だからこそ、私はこれからの時代の地域活性化には、この「思い出」や「心に残る風景」こそが重要になってくると思っている。そんな風景の中にこそ、現代の疲弊した地方を蘇らせる鍵があるような気がしている。
 
風景や思い出だけで、どうやって地域経済を活性化させるというのだと突っ込まれるかもしれない。だから、これから何回かにかけて、それを説明していきたい。


 

「地方創生」「地域振興」とは何か? 中途半端な町の活性化とは?


「地域振興」や「地方活性化」というと、多くの人が思い浮かべるのは「観光資源」の発掘であろう。国の「観光立国」政策とも相まって、「地方」といえば自然豊かな絶景と美味しい特産品で外から人を呼ぶことが活性化の肝のように思われる。
 
しかしそうだろうか?
 
例えば、私の故郷、愛媛県八幡浜市は漁業とみかんの町で、田舎は田舎なのだが、有名な景勝地があるわけでもなく、海のリゾートを体験できるわけでもなく、漁業も漁獲量は激減し、みかんも生産者は減り、街の中心部の商店街はシャッター商店街になり果て、街歩きをしても、どこを見ればいいのかわからない。結局、観光に来ても、あらたに街の名物とした「ちゃんぽん」を食べて、道の駅に寄るくらいしかない、決定的な「観光的な武器」を持たない町である。
 
日本中には、こうした「自然豊かなど田舎」でもなく、かといって商業施設や文化施設も豊富な「美しき地方都市」というわけでもない「中途半端な自治体」が山のようにある。しかし、これまで提示されてきた「地方創生」「地域振興」のアイディアは、観光や特産品でいかに稼ぐかが重視され、そういう中途半端な自治体の特性を無視したものではなかったかと思う。
 
そこで、私は、まさにそうした「中途半端な町」である自分の故郷を題材に、そうした中途半端な町をこそ活性化させる新しい時代の「町おこし案」を提示したいと思う。

そんな中途半端な町にも「松村正恒の建築」のような隠れた宝があるのである。しかし、80年代以降の「金儲け一辺倒の価値観」の世の中で、その良さが理解されず取り残されてきた。今こそ、それを反省して、自分の故郷の街の素晴らしさを見直すことが、新しい時代の町おこしへの第一歩になるのではないだろうか。
 
現在、八幡浜在住の方も頭の中に思い浮かべてみてください。
子どもの頃に楽しいと感じた場所はどこだったか、何を楽しいと思ったか。
まずは「思い出の風景」を思い出すことから始めよう。
 
まずは「思い出の風景」から始めて、それをどう経済の活性化に繋げていくか。それをこれから書いていきたいと思う。考えながらの執筆なので、まとまらないことも、言葉足らずなことも多いと思う。今回の文章だって、なぜ「思い出の風景」が重要なのかがいまひとつ伝わってない気がする。
これから自分の故郷を素材に具体例を上げながら書いていく中で、その意図が徐々に伝わればと思う。気長にお付き合いください!


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