2020年10月6日火曜日

「治らない病」について考える2冊と医学書院の「ケアをひらく」シリーズ

【「治らない病」について考える2冊】

ある読書会の次の課題図書として「食べることと出すこと」(頭木弘樹・著)という潰瘍性大腸炎(難病指定)を患うの人の書いた本を読み始めた。「治らない病」を抱えるものの日常(非日常)が書かれていて、今日拾い読みした部分に、「治らない病気なんです」と言うと、「いえ、治りますよ」と否定されてしまいウケが悪いという悩みが書かれていた。その「いえ、治りますよ」はなぐさめるつもりか、もしくは治らない病気があるということへの恐怖ではないかと著者は推察する。どっちにしろ「治りますよ」という側も本当に治ると思っているわけではない。




がんの再発転移もそうだが、医師から「治らない」と言われる病気はいくつもある。坂口恭平が言ってたが、彼が患っていた躁鬱病も「治らない病」なのだそうだ。しかし、彼は自分でそれを治したという。少なくとももう1年は症状が出ていない。先々はどうなるか分からないから、それを一般の医師は「寛解」(一時的に良くなる状態)と呼ぶのだろう。坂口自身は自らのメソッドにより、日々、畑仕事をすることなどで再発を防いでいるようだが、これで寛解状態が2年3年と続き、ずっと出なければ彼は本当に「治らない病」を治したことになる。坂口の立場に立てば、「いえ、治りますよ」はなぐさめではない。

科学的か非科学的かはおいといて、坂口恭平の新刊「自分の薬をつくる」も「食べることと出すこと」と合わせて読んでみたい。両方合わせて初めて病というものの本質が見えてくる気がする。そして、その後に「私自身の病を治す」ということについて、考えて、できれば書いて、次に出す冊子の中の一テーマにできたらと思う。



【医学書院のケアをひらくシリーズ】

それにしても、この「食べることと出すこと」の版元である医学書院のケアをひらくシリーズは面白い本揃いである。結構前から続くシリーズのようだが、現在50冊近いシリーズの中には賞をとった本がいくつも。坂口恭平も自らの躁鬱病について「坂口恭平躁鬱日記」で書いているし、大宅壮一ノンフィクション賞をとった川口有美子さんの「逝かない身体」もこのシリーズ。中島岳志さんと東工大の未来の人類研究センターで利他プロジェクトをやってる伊藤亜紗さんの「どもる体」も。同じく國分功一郎さんの「中動態の世界」は小林秀雄賞をとっている。写真には写っていないが、細馬宏通さんの「介護するからだ」もこのシリーズで、これら4冊が同じケアをひらくシリーズだとは知らずに買っていた。後者3冊拾い読みしかしてなかったので、あらためて読んでみようと思う。

そもそも医学書院って医療関係者向けの専門書などが中心の出版社だと思うが(ずっと昔からそういう本もあったらすいません)、その中で、患者や介護者の視点からのシリーズを作ろうと考えた編集者の意図を聞いてみたい。医学(治療)の世界では普段語られないような哲学的な視点から、病をケアするということを考えるシリーズだ(と思う。上記4冊しか持ってない上、まだ拾い読みしかしていないので・・)。

オーダーメイド医療の時代、一人ひとりで治療法も違ってくると言われる中、もはや医師任せだけの医療は成り立たないということが自覚され始めている。

ロボットではない人間の体は、機械の部品を変えるほど簡単には治らない。病は気からというように、体は意思に支配され、しかし、意思通りに体は動いてはくれない。そんな身体の真実には、自分の体を内側から主観的に感じられる自分と外側から客観的に診る医師との信頼のもとに行われる共同作業でしか近づけないはずだ。そういう現実の中で行われるべき「ケア」とはどういうものか?ホリスティックな「治療」とはどういうものか?考えるときに来ている。

現代医療の進化により、近年の私たちは全て医者頼みにし、自分にしか分からない体の反応にあまりにも鈍感になりすぎていた。薬で治ると、病を甘く見すぎていたところもある。そのツケが昨今の生活習慣病の激増ではないだろうか。「病」がこれほどまでにポピュラーになりながら、「病」と「自分」との距離は遠のいている。そんな現代に、患者(予備軍も)や介護者の側が主体的に自らの身体や病について考えを巡らすための書物が色々な角度から書かれるのは当然かもしれない。

身体とは何か、病とは何か。
それは自分とは何かを考える行為でもある。
「病」を語ることは人間を語ることであり、「医」を語ることは社会のあり方を問うことにもつながる。

「ケアをひらく」の編集者さんと話がしてみたいなあ。

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