(facebookページにもだいたい同じ原稿をアップしています。冒頭ちょっとだけ違います。)
「空飛ぶ火鉢」にも掲載している都心の自然を映した写真「東京花鳥風月」。先日、「もうひとつの世界」と題して写真展をやった不忍池の蓮の写真と並ぶ撮影場所が皇居のお壕の土手。四季の草花を撮り続けているが、初秋の曼珠沙華の写真がまだ撮れていなかった。それで、今年こそはと思い、台風が来る前(15日)に撮影に行ったのだが、望遠レンズを忘れ、遠くにある花を十分に撮れなかったので、あらためて、今日お壕に行ってみた。既に10日以上が経過し、その間に土手の自然は私が思っている以上に様変わりしていた。彼岸花は枯れさらばえて、老女の姿。足下には小さな秋の花が咲き始めている。
通りがかりの定年間近と思われるおじさまが、「彼岸花は本当にお彼岸までだよ。毎年必ずそう。」と声をかけて来た。さらに聞けば、今年は道端で動植物の死骸をよく見かけるという。そこから、ひとくさりの陰謀論。草食男子が増えているのは米軍機がホルモンを空からまいているからだとか、加計学園と731部隊は繋がっているだとか…。日が傾いて写真が撮れなくなるのでと、やんわり言葉を制すると、「夜の写真もいいもんだよ」と言って、去って行かれた。残念、私には夜の草花の写真を上手に撮れる腕も道具も無い。皇居のお壕でジョギングもせず、カメラ覗いてしゃがんでいる姿というのはよほど変わり者に見えるのだろう。あらためて、リュックを背負って、パソコンバック斜めがけ、カメラを首からぶら下げた中年女の姿を思った。
定期的に写真を撮っていると、その年の草木が発する勢いのようなものを漠然と感じる。原発事故後の夏から1年間はやたらともしゃもしゃ繁茂していたが、3年目4年目あたりは元気が無かった。上野公園の巨木が何本も積雪でまっぷたつに折れたのもその頃だ。それが何を意味するかはわからないし、たまたまなのかもしれないし、私の思い違いかもしれないけれど、植物だとて、環境の変化で元気にも病弱にもなるだろうし、言葉とは違う何かで私たちに訴えかけているのだろう。
彼岸花は老いに向かう自らの姿を見せるため、今日、私を呼んだのかもしれない。枯れた彼岸花も美しい。しょぼくれずに老いることはできるのだ。それに、彼岸花は花が終わった後に緑の葉が伸びてくる。人生はこれからだったりもするのだ。
ま、どっちでもいいか。
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