2011年4月13日水曜日

第3回火鉢カフェ報告〜その2〜「日本での暮らし方」を考える


今回の火鉢カフェは、震災の影響もあり、カフェでの話題はもっぱら
次世代エネルギーや今後の私たちの暮らし方についてだった。
自然エネルギーへの転換はもちろんのこと、社会のあり方などにも話は及んだ。
というのも、この火鉢カフェの会場である長屋が、まさにその社会のあり方を示唆していたからだ。
今回は、そんなに寒くなかったので、常に縁側のガラス戸を開け放っていた。
すると、通る人々は中をのぞいて、近所の人は必ず挨拶をしていく。
中から顔を向けて目が合えば、知らない人でも「こんにちわ」と声をかける。
そうした、かつてはあった日常が、まだここには残っていることを、参加した方の多くが
感じていたと思う。
ドアのチャイムを鳴らさずに宅急便屋さんがやってきたり、
お向かいの女の子が部活から帰ってきてお帰りとか、子どもが入園式を終えて戻ってきて、おめでとうとか、そういう会話が交わされていた。

先日、作家の高橋源一郎氏が、雑誌のSIGHTでの対談で、宮崎駿氏と会ったという話をしていた。
宮崎氏は次回作のために、昭和30年代の「町の音」を収録しようと日本中をロケハンして廻ったのだそうだ。
しかし、そのことによって、もはや日本には「生活音」は存在しないことが分かってしまった。
最終的には屋久島まで行って、昭和30年代の町の音はもう日本にはないことを確認したのだ。
気密性が高い現在の住宅事情では、朝のまな板の音も、雨戸を開ける音もなく、子どもの声も聞こえない。密閉された空間に閉じこもり、音をたてずに過ごしている。窓も開けない。

それが、現在の疎遠な地域社会を作ってしまったのだろうか。

私は、地域社会のあり方は、住宅のあり方によって少なからず規定されると考えている。
住宅の形態が変わる事によって、人間関係も変わってきた。
木と紙でできた、隙間だらけの低層の住宅が建ち並ぶ社会から、
コンクリートで密閉性の高い、高層マンションが主流の世の中に変わっていった事が、
今の社会を形作る上で大きな影響を与えていると思う。
もちろん、プライバシーという概念が導入された事は悪いことではない。
でも、よく考えたら、家や部屋に関するプライバシーなんて、
部屋を汚くしてるからお客さんには入ってもらえないとか
恥ずかしいとか、その程度のことのような気もしないでもない。

この宮崎駿氏の話には続きがある。
さらに彼は、「アニメは僕で終わりです」と語ったんだそうだ。
なぜか・・・。
「火とか水とか風とか音とかを再現するのがアニメ」で
「それを知らない人間には再現できないから、もう不可能です」ということらしい。
彼曰く、最近のアニメーターは炎が描けない。なぜ描けないんだと聞くと、
「見たことがない」と答えるらしい。

確かに。
今回カフェに来てくれた方のほとんどは、炭火は非日常だと言っていたし、
20代の女性は、私たち世代には全然未知の世界と言っていた。
本当に「炎を見たことがない」若者がほとんどなのだろう。

私は年齢40そこそこでも、ゾンビのように生き残った商家の長屋、
さらに向かいに鎮守の森、自転車漕げば海があり、という特殊な環境で育ち、
五右衛門風呂とか、秋の落ち葉炊きとか、海を渡る風とかを日常的に経験している。
火鉢カフェでの炭火も別に珍しくはない。でもそれは多分特殊なのだ。

*火鉢クラブ設立のきっかけとなった内子町石畳の炭窯

今、宮崎氏はアニメを自分とともに終わらせるための葬儀をやろうとしているという。

宮崎駿のアニメは、そのストーリーの好き嫌いはあれ、
水のたゆたい方や、風の流れや、木のざわめきにおいては、
確かに、自然のそれを経験した時の記憶を包含しているような気がする。
自然を目の当たりにした時に感じた、快楽や恐怖感や説明できない色々な感情を
そのセル画を重ねた映像は呼び起こすのだ。確かにそれは他のアニメとは違うかもしれない。

「アニメ」が「アニメもどき」になっていくのは時代の宿命かもしれない。

でも、私には「葬儀」をやろうとは思えない。
炎を知らない若い人に「火を扱う事を知ってみない?」と呼びかけたい。
別に、昔に戻りましょうと言いたいわけでもない。

ただ、火を扱うことは楽しいのだ。それを伝えたいだけだ。

理屈を言えば、今回の火鉢カフェのテーマにも掲げたように、
震災等で電気が止まるような非常時には、炭や薪などで火を使えることも必要だともいえる。
火は人間の文明の源でもあるから、それを忘れる事は、重要な何かを忘れるようなものだ、
とも言えるかもしれない。

けれど、なぜ火鉢カフェなんかをやっているかを本能に従って答えれば、
「火は楽しい」というところに行き着く気がする。

火がつくまでの過程、その上でモノが焼ける様、焼けたもののおいしさ、
火の側にいる気持ちのよい暖かさ、火力を強めたり弱めたりコントロールする面白さ、
大きくなったり小さくなったり、強くなったり弱くなったりする炎。そして、その赤い色。

面白いのだ。

しかし、それがゆえに使い方を誤り、炎が牙を剥く事もある。
その怖さを知るにも火を使ってみなければわからない。

使いながら、「火」の人間にとっての意味、現代における意味を考えてみたいと思う。
現代の生活の中で、火を扱うメンタリティを生かしたエネルギー政策とはどんなものだろう。

誰もその姿を直接は見ることのできない「原子力」という火を捨てて、
その姿を拝める「原始的」な火について、いま一度考えてみる事も、
次へのステップに行くためには必要なんじゃないかと思う。

自分でも分かったような分からないような締めだけど、これから考える事は多いということだけは確かだ。

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