2020年9月18日金曜日

能登へ来て、やっと焚き火をやりました。

現在、能登に来ています。

これまでブログでは言っていませんでしたが、9月1日から療養も兼ねて能登の自然豊かな場所で過ごしています。

能登に来て17日。やっと焚き火をやりました。やりましたというより一緒にやってもらったという感じです。焚き火バーをやりたいなんて言っていたのに、朝昼晩3食きっちりと食べ、夜12時には寝る体制になるという東京とは違った時間の流れの中で、イベント的な意味で、非日常的な焚き火をやることに心と体がついていきませんでした。今回やったのは溜まっていた廃材や枝打ちした木を燃やす、言ってみれば日常生活の流れの中にある焚き火です。


火を囲んで語らうという可愛い焚火ではなく、炎に畏怖さえ感じるほどの巨大な焚き火となりました。溜まっていた枯れ枝や廃材をいっぺんに燃やしたので、びっくりするくらい大きな炎が上がり、数メートル離して撮影していたiPhoneが高温になり知らない間に緊急停止し、ビデオが中断してしまったほどです。なので、最も炎が大きかったあたりは残念ながら収録できていません。

周囲を木に囲まれたこの場所では枝打ちした木がどんどん溜まっていき、木を燃やすことも仕事の一つです。焚き火は楽しむものという前に生活の一部なんです。私がここに来るまで燃やすのを待っていてくれたようで、焚き木は山のように溜まっていましたが、夏の間によく乾燥していたので、驚くほどあっけなく燃えてしまいました。

炎に勢いがあると、燃えるときの音も強烈です。
竹が弾けるパーンという音は銃声のように鋭く、遠くで聞いてたら本当に狩でもやってるのかと思うほどでした。一方で、生木から枝打ちしたばかりのモミの葉っぱは、チリチリジュっという仕掛け花火でよく耳にするような可愛らしい音を立てて、小気味よく燃えてしまいます。
枯れ葉の束を投げ込むと、上昇気流で葉っぱが舞い上がり、まるで祈祷でもしているようでした。火を焚くことで神に届くのか・・そんな思いで舞い上がる枯れ葉を見上げました。

レジャーではない労働の焚き火。枝を運び、火に投げ込むを繰り返し、顔は紅潮して汗はダラダラ流れる、そんな労働のの焚き火はまた別の心地よさをもたらしてくれました。
焚き火の後には冷たい紫蘇ジュースと梨とぶどうで、一気に燃えたねえと熾火になった焚き火を眺めながらのお疲れ様。炎の遠赤外線で体も芯まで熱くなって、心地よいだるさを感じつつこうして徐々に健康になっていったらいいなあと願いました。

枝打ちした木を燃やす。燃えれば土にかえる。何にも無駄がない。
能登に来て、循環するままに物事が進んでいく暮らしを体験しています。食べたぶどうの種もピッて庭に捨てればいいし、掃き掃除した枯れ葉や埃も庭に吐き出せば、あとは自然に帰るだけです。
ゴミを集めてビニール袋に入れて収集車が集めていく。
そんなエントロピーの増える作業が本当に少ないのです。

白く熾火になった焚き火はまだまだ火力があり、強風が吹いたりすると危険なのですが、夕方から降り出した雨が、日暮れと共に静かに火を消してくれました。

こうした暮らしが今後の火鉢クラブにどういう影響を与えるか。
私もまだよくわかっていません。
「火を囲む」とはどういうことか。実際に火を囲むだけでなく、都会での生き方や暮らしに生かせる何かを見出せるでしょうか。もう少し考えてみます。