2012年6月3日日曜日

花は野にあるように vol.1「アジサイのブーケ」

「花は野にあるように」第一回は梅雨の花アジサイ。野の草花が、まるでいけばなや寄せ植えのようなかたちで咲いている姿を切り取ると前回の口上に銘打ったけれど、しょっぱなからイレギュラーなパターンで始まってしまいました。

【アジサイ一輪のアップです】
上野不忍池の周囲に咲いていたアジサイ。花が開きかけの若いセイヨウアジサイじゃないかと思います。これがもっと開くといつもの感じのアジサイに。


種類はともかくも、一輪の花がまるでいろいろな種類の花で作られたブーケのようで、おもわずシャッターを切りました。時は6月、ジューンブライドにこのまま渡したいと思えるかわいらしいブーケです。花が開いてゆく過程の、蕾の部分、緑色の開きかけの部分、大きく開いてピンクに色づいた部分、それぞれが種類の異なる花のように様々な表情を見せています。もう少し時間がたつと、全ての花が同じような大きさに開いてピンクに色付き、単調になってしまうかもしれません。今の時期だけ楽しめるアジサイのブーケです。

たまたま見かけたこの姿形は一期一会。また明日には違う美しさに変化しています。そんな偶然の出会いも、この初々しさも花嫁のブーケにぴったりだなあと思いつつ、「花は野にあるように」の第一回にこの写真を選びました。

ところで、アジサイには両性花と装飾花の二種類の花があります。受粉して結実する本来の意味での花は両性花。装飾花は結実しない花です。周囲だけに花が咲くガクアジサイの真ん中の部分が両性花、周辺が装飾花。つまり、普通のセイヨウアジサイの花はすべてが装飾花です。品種改良によって装飾花のみになったそうです。また、装飾花の花びらと思われているものは実は萼(がく)の部分で、中心にある小さい粒が花の部分です。写真のアジサイにも萼の中央に小さい粒が見えますが、それが花。もうしばらくすると開いて、雄しべと雌しべらしきものが出てきますが生殖能力はありません。

近くで花を覗き込んだからこそ、こんな花の構造まで見えてきたわけですが、かつては満開になったアジサイをちょっと離れたところから眺めていました。濡れながら咲く青紫の手鞠のようなアジサイに雨に佇む大人の女性をイメージしていました。それもちょっと和服のイメージ。しっとり落ち着いた美しさは、騒々しい自分とはなんとなく遠いものでした。けれど今回見たアジサイは、雨の日のブルーな気分を浮き立たせるような初々しさ。一つの花も開き始めてから枯れるまで、人間同様、若い初々しさ、大人の艶と落ち着きといった美しさの変化があるのだと気づかされました。「蕾、満開、枯れる」という言葉はよく使い、その頃の花には意識的に眼を向けます。けれど、写真のアジサイのような蕾と満開の間、まさに開こうとしている時期の花というのは、野で出会っても、途中経過として見過ごしがちなのかもしれません。アジサイのいろいろな顔を知ったことで、遠いと思っていた大人アジサイも好きな花に変わりそうです。


【日本原産のガクアジサイ】
初々しいブーケの前を通り過ぎると、今度は繊細なレースを見つけました。下の写真は同じ上野不忍池のほとりにあるガクアジサイです。


ガクアジサイは日本の原種で、これを品種改良することでセイヨウアジサイも生まれました。中心の粒々の部分が両性花。白い装飾花は萼(がく)。本来の花は粒々の方です。そして、こんな粒々が、近くで見ると装飾花に増して美しい。やはり本物の花だけのことはあります。今頃気づいたんですけどね…。本当のアジサイとは何か。その入り口にやっと立てた気がします。

これをきっかけにアジサイの画像を検索してみてびっくり。どれも驚くような可憐さ。今まで私はアジサイのことをほとんど知らなかった…と愕然。アジサイが好きな花の上位にぐーんと上昇です。いろんなアジサイの画像、こちらのサイトが綺麗です。

最後に、もっと若くて、花びら(萼)が色付く前の緑色のセイヨウアジサイの写真を紹介します。

こんな緑色のブーケは誰にあげましょうか…? 

いくつになっても新しく何かを始めようとしている人にプレゼントしたいと思います。






2012年6月2日土曜日

『花は野にあるように』スタート


ブログ久々の記事は新しい企画で始めようと思います。
今日から「花は野にあるように」と題した、新たなカテゴリーを作りました。

千利休の利休七則のひとつ「花は野にあるように」

この有名な利休の言葉は、「あるがまま」ではなく、自然の美しさの本質を汲み取って自ら組み立てなおし、花を野に「あるように」生けるということだそうです。けれど、自然の美しさの本質をつかむことなど一朝一夕にできることではありません。そこで、自然の美しさとは何かを知るために、日々、身近な野の花を見つめ、写真に切り取る事で、「野にあるように」とはどういうことかを学ぼうというのが、この企画の目的です。言ってみれば「花をいけない、いけばなのおけいこ」です。


なにゆえにこんなことをしようと思ったのか

まずは、こちらの写真を見てください。

ツワブキ、もみじ、萩から名前の分からない雑草まで。いろいろな草花がわしゃわしゃと地面から生えていますが、すべて勝手に自生したものです。なんだか絶妙な配置の寄せ植えのようには見えませんか?このまま草盆栽として鉢に移せば立派に部屋を飾ってくれそうです。多分、もみじがあることが雑草っぽさを抑えているのだと思いますが、このまだ小さなもみじも、いつのまにか生えていたもの。言ってみれば雑草です。

勝手に生えた草花の配置が、そのへんの人為的に作られた寄せ植えよりも美しい事実。あるときそれに気づいてから、一種類の花を眺めるのではなく、周辺の複数の植物込みで眺めるようになりました。時におのれ生えの雑草の固まりは美しいいけばなのようでさえあります。

余談ですが、この写真うちのお墓です。山の斜面の墓地にあり、地面にはコンクリートが敷き詰められていません。改修する資金が無いため昔のまんま。敷石の間に土の地面が顔をのぞかせていて、お参りに行くたびにこのように草が伸び、絡まり合っています。そのせいでしょう、うちではお墓に行くことをお墓参りと言わず、お墓掃除と言っています。しかし、掃除とはいうものの、草盆栽の寄せ植えのように美しい植物を一掃するのも忍びなく、一部そのままにしていたりもします。

この草花の群生をことさらに美しいと思ったのはお墓という特殊な場所のなせるわざかもしれませんが、今こうして、これを企画にまでしようとしているのですから、ご先祖様の思し召しかもわかりません(笑)。


誰が植えたわけでもない、自然にどこからか種が飛んできて勝手に生えた植物。ひとつひとつの草花それぞれが美しいだけでなく、いくつもの植物が重なり合うその偶然の配置は、まるで誰かがいけばなをいけたように美しい。そう気づいたとき、はじめて「花は野にあるように」を意識しました。作為や邪念の無い無為を目指せというのはこういうことなのかもしれない。無我の境地に至るとは美に至るということなのでしょうか。

なんだか、わかったようなわからないことを言ってしまっています。

せっかくだから写真をもう一つ。
こちらは、ある旅館の裏の林にあった木の切り株。自然に苔がはえ、その割れ目からツユクサらしきものが生えています。向こうにはミズヒキ草でしょうか?


たまたま見つけた複数の植物のコラボレーションをどうカメラで切り取るかにも、人それぞれの美意識の違いが表れます。こうしてカメラで道端の自然を切り取る作業によって、実際に花をいけることがどれほど上達するかは定かではありませんが、まずは見て選ぶことから始めようと思います。

道ばたに生える草花、散る花びら、枯葉などなど、特に野山に出かけるわけではなく、近所の公園やお寺の境内、道ばたの草花などなど、都内で見つけたものを中心に紹介します(もちろん野山もありですが)。中には、枯れ葉が敷石の上に散ったさま、塀を這い上がるツル植物など、人間が作ったモノとコラボして美しさを醸しているものもあります。まるで素敵な花器にいけられた花のようです。

しかし、当面、実際のいけばなへの応用はやりません。本当に自分の心が震える美しいものとは何かに気づくことくらいが目標です。とりあえず、「おっ!」と思ったらシャッターを切ってみます。でも、気が向いたらいけばなもやってみたいですね。あくまでも心の赴くままに。楽しいと思えるように。

口上が長くなってしまいました。
カメラはきちんと使いこなすほどの技量ではなく、ほとんどがオート。数百枚撮っても、使える写真は数枚ですが、そちらの上達も願いつつ、次回からは去年の秋から撮ってきた写真を掲載し、なぜそれを美しいと思ったか自分なりの分析をくわえていこうと思います。

とはいえ、ただの花の写真じゃないか・・・という気もします。散歩中に道端の花の写真をとってアップすることは多くの人がやっていること。「新しい企画」とまで銘打ってやることか・・・。ま、いいか。とにかく始めます!