2011年6月1日水曜日

私が「火鉢クラブ」をはじめた理由〜実家の長屋の思い出

テレビの仕事を辞めることを決めた去年の3月。かなりぶっちゃけた内容のブログ記事を書いていた。
そのひとつに、私の「住宅」に対する思いを書いたものがある。
入り口は、収入が無くなるのに伴って、自らの住宅ローンをモラトリアムしてもらう話であるが、
その住宅ローンを組んで建て替えた田舎の実家への思い入れと壊した古い家への思い出を
延々書いている。ボロいけど、季節とともにある住宅であった。
この思いが、私がこの「火鉢クラブ」を始めた根っこにある。

去年までやっていた報道番組のディレクターという仕事も、自分にとって大切な仕事であったが、
「報道」とは何かという認識が、結局は今のテレビとズレていて、続けるのが辛くなった。
私にとっての報道は「人の暮らし」である。
快適な家に住む、美味しく安全な食べ物を食べる・・・、それを阻むものが何であるのか。
一見私たちを守っているかに見える政治や法律が、
実は見えないところでそんな小さな幸せを阻んでいる。
それが見える形で、それも最悪の形で表れたのが今回の原発事故だ。
実は見えないところで、今回の悪夢は準備されていた。
生活実感からは乖離した報道が、そんな水面下の悪夢に気づかせなかったんだと思う。

ニュースが伝える大事件の数々。
なぜ原発が誘致され続けたのか、なぜ耐震偽装問題が起こったか、冤罪はくりかえされるのか、
それを発見する鍵は、自分の生活の中のちょっとした事象に実は垣間見えている。
それが見えないのは、ちょっとした違和感や疑問を見て見ぬ振りをしてやり過ごすことに
慣れっこになっているからだ。
それは、ちょうど、空調の整った住環境に慣れっこになって、
本来の季節のすばらしさを忘れ去ってしまっている私たち現代人のあり方に似ている。
季節感を取り戻し、季節の変わり目にふと気づく、そんな感性と身体性を取り戻すことが
人為的な悪夢の到来を予測する直感を育てることにもなるのではないかと信じている。

そして、私自身ずっと原発はやめるべきと思ってきたのも、
もちろん自分の実家の20キロ圏内に原発が存在することもあるが、
やはり、小さい頃、ボロい我が家で体験した、季節を感じる暮らしのせいだと思っている。

そこで、今回は、ちょっと長くなるが、この「火鉢クラブ」設立の元となった、
今はなき(建て替わりました)、実家の話を書いた、去年のブログをもうひとつのブログの方から
転載したいと思う。住環境の話だけではなく、地域のつながりや場所に関係した話もほんのちょっと
ではあるが入っている。そのへんも「火鉢クラブ」が考えていることの範囲である。
以前、読んだことのある方は飛ばしてチョ。

以下、「What is value?価値って・・・ナンシー関のいない世界で」よりの転載です。

2010年3月14日「住宅ローンモラトリアム。そして、日本の家と私の野望(笑)」

(最初の方すこし略します)*途中少してにおは直したり、書き直してます。元のブログはもとのママ

これまでのブログにも書いていますが、私は親が住んでいる実家の住宅ローンを抱えていて、
仕事を辞めるにあたって、それ以後返済をモラトリアムしてもらえないかと思っています。
私が借りているのは、地方銀行ですが、さて、どういう対応に出るのやら。
相談に行くのは4月に入ってからになりそうですが、
ちょっと電話で探りを入れてみようかなあ。

お前が分不相応に家なんか建てるからダメなんだろという方もいらっしゃるかもしれないので、
言い訳がましくも、一応断っておこうと思うのですが、
この住宅ローンはやむない事情で組んだのです。

親が暮らしている実家は、本当に古い家で、明治時代に建った商店街の長屋の一軒だったのですが、
周りの家がだんだん切り離して建て替えていく中で、支えを無くしたこともあってか、
一部土壁は崩れ、本当に地震でもあったらやばいぞってことになっており、
父母は日々不安のうちにその家で暮らしておりました。
お金がなくて、それまであまり修理できなかったのもあります。
雨漏りなどもあり、本当にどうにかせねばという状態が続く中、
とりあえずリフォームの相談をしてみたところ、これはもう建て替えないとダメだよと
知り合いの大工さんにも宣言されたようです。
両親もボロい家で暮らす事はやぶさかではなかったのですが、危険と隣り合わせとなり、
どうしようと悩んでいたようです。

しかし、シャッター商店街となりはてた地方の商店街で、
表具店なんていまどき田舎での需要はのぞめないクラシックな商売をやっている両親に
そんなお金はなく、困っていたところに、たまたま出入りの銀行が
「住宅ローン借りませんか」という話をもってきたのですね。
でも、返済能力のない両親に借りられるはずもなく、私のところにお鉢がまわってきました。

年取った両親に今から東京出てこいと言うのも酷だし、もし実家を畳んで、
東京で広い部屋に越したとしても、家賃が激上がりするか、遠くに離れるかどちらか。
それに、細々とはいえ、お店を開けておく事で社会とのつながりを保って生活している両親から
それを奪う事は、生きる張りを奪うようなものでしょう。
また、当時丁度、不景気のおかげなんでしょうか、
私のような、テレビ局で契約で働く保証のないものでも、
奇跡的に住宅ローンを組む事ができたのです(しかし、結局ローンを組んだのは最初に話しを
もちかけた銀行とは違う所になったのですが)。

で、今の実家が完成し、25年の住宅ローンを払い始めました。
払い始めてもう6年になります。
そんなわけで、不可抗力により組まざるを得なかった住宅ローンです。
どなた様も銀行様も、こんな景気の悪いおり、たった1年待ってくれという私の願いを
聞いてくれたってバチは当たんないでしょ、と思うのですがいかがざんしょ。

ところで、当初の住宅ローンモラトリアムとはちょっと話がずれますが、
ここで、この実家の話を少し聞いてもらえますでしょうか。

というのも、この、家に対する思いが、私が仕事を辞めて今後やろうとしていることにも、
間接的に関係があるからです。

ローンを組んで新しく建てた実家は、資金不足で、狭い上に、
建材などの部分で妥協の産物でもありますが、
暮らしやすい家になったと、自分では結構気に入っています。
店舗の裏側に居間があって、その奥に壷庭があります。いわゆる町家風のつくりです。
居間と廊下と台所と風呂場が庭を囲んでいて、どこにいても庭が見えます。
狭い庭にはいろんな植物が己生えに茂っていて、ちょっと野山を切り取って来た風情。
腰高の風呂の窓を開けると庭に面した露天風呂気分。空を見上げれば時には月も見えます。
昔の家からとっておいた沓脱ぎ石は縁側代わりの廊下の前に置かれていて、
廊下に座ってぼーっとできます。
居間のサッシの内側の障子は雪見のガラス障子です。
建材などは、カタログから選ぶセミオーダー形式で、
窓は普通にサッシ(アーケード商店街は消防法で防火ガラスのサッシにしないと違法なのです)、
町家風とはいっても、予算と面積の制約で、京都の町家とは似て非なるものではありますが・・。

今はこの家に満足していますが、昨今の家の標準的スタイルであるLDKな間取りと違う
こうした家を作る事は結構大変な作業でした。
最初に設計士さんから出されたプランは、店舗の奥のドアを開けると、すぐ廊下があって、
廊下の途中にトイレ、その先にキッチンと居間があり、
その先に裏通りに面した小さい庭があるというもので、
店舗にちょうど2LDKの家をくっつけた感じでした。
しかし、町家の作りでは、多分、店舗のすぐ裏は、ちょっとした部屋(玄関間)があるはずです。
店番してる時ちょっと中に引っ込んでも、
「ごめん下さい」という声が聞こえる位置に部屋がなくてはいけない。
田舎の表具店なんて、いつも店に誰かいる訳じゃないですから。お昼ご飯食べるときは引っ込む。
そういう時のために店のすぐ裏に部屋が必要なんです。
いつでも店番置いてちゃんと商売している今時のお店はそんなことないのかもしれません。
そういうちゃんとしたお店なら、近くにあるのはトイレだけでいいのでしょう。
しかし、年寄り2人の、人もそれほど訪れない店には、こうした仕様が使い勝手がいい。

ながながくどくど説明しましたが、これを設計士さんに分かってもらうのは実は比較的容易でした。
それよりも難しかったのは、昔の家のいい部分を残したいという漠然とした希望を伝える事です。
私の主観的な家への思い入れや思い出などが入り混じって、
それをどう説明してどう具体的設計にしてもらえばいいものかが分かりませんでした。

実のところ、壊してしまった昔の家、それをそのまま再現したかったのが本音です。
昔の家は、先にも述べましたが、いわゆる町家の作りで、土間があって、
家の真ん中に小さい壷庭がありました。
庭に面した部屋は表面に歪みのある、昔の流れるようなガラスの入ったガラス戸で囲まれていました。階段は箱階段、風呂は五右衛門風呂、
台所は(釜屋と呼んでいましたが)一旦靴を履いて下に降りる土間でした。
そういえば和式便器も白ではなく、伊万里風の青い画が描かれたものでした。
また、これが子ども心に一番グッと来てたのですが、物干に繋がる木の雨戸には、
小さな木の節穴があって、晴れた日に雨戸と内側の障子を一緒に閉めると、節穴から光が入り、
ピンホールカメラになって、障子のスクリーンに外の景色が逆さに映るのでした。
また、物干から屋根に登って何度も夕焼けも眺めました。
瓦と瓦の隙間には雑草が顔をのぞかせています。
そこから眺める西の空を鳶が行く様は、私にとっての枕草子の雁の様です。思い出すと涙・・。

住んでいた当時は、もう古いボロ屋で、人を呼ぶのも恥ずかしく、
自慢など決してできなかった家ではありますが、
ほかにも、挙げだしたらきりがないほどいろんな思い出が詰まっていました。

物理的にそのまま再現するのは資金的に全然無理です。
面積からして土間も諦めなくてはならないでしょう。
では、そんな気分だけでも再現できる家はどうやれば作れるのか?
夏休みを家の打ち合わせにあて、実家に帰り考えました。

方眼紙に自分で素人なりの設計図を書いて試行錯誤です。
長屋を切り離すので、間口が片側50cm計1mも狭くなり、建坪も以前よりずっと狭くなります。
そのため、当初は、昔の家と同じ間取りで、真ん中に壷庭をとる発想は私にもありませんでした。
裏庭でもいいやと思っていたのです。
しかし、実際に設計士さんから提示された間取りから見えてくる生活は、
どうしてもしっくり来ませんでした。
店舗のすぐ裏に部屋がひとつあって、ダイニングキッチンがあって
再奥に庭があるのが何故ダメなのか?

帰郷から何日目だったか、家の向かいの道を登っていったところにある
かつては金比羅様の祀られる本殿のあった場所から商店街を見下ろしていたときのことでした。
「やはり部屋は狭くなってしまうけど、家の真ん中に壷庭つくるしかないなあ」とふと思ったのです。

うちの家が、貧しいながらも、最終的に殺伐としなかったのは、家のど真ん中に庭があったからだ、
その時そう思いました。
そして、それを裏付けるシーンが頭の中に浮かんできました。
大学で東京に行くまでの私は、
よく、庭で地面に向かって蟻の行列にすいかの欠片を落としてやったりしていました。
反対に空も見上げていました。
特に思い出に残っているのが、夜トイレに行く時に内庭に面した廊下から見上げた月や星座です。
闇の怖さも覚えています。時には野良猫が侵入しどきりとする事もありました。
トイレ(ご不浄)は外に面してないとだめなのです(って決めつけ過ぎw)。
水回りはすべて庭に面してる、つまり半分外にあるのが、生活の基本だったことを再認識しました。
そういえば、母は洗濯機も外に置く派です。

当時は部屋にいるときも台所でも風呂でもトイレでも、一日中何をしている時でも、
外とつながって日常を過ごしていました。アーケード商店街という町中に住んでいても、
この小さい庭が家の内部にあり、向かいの鎮守には大きな楠木が茂り、秋には葉っぱでたき火をして、
木にまたがった。そういう風に四季を感じる事が、お金がないということを私の中で
決定的な問題にしなかったのではないかと思えてなりません。

家の中の全ての場所から見える庭。今の建築の主流がどうであろうと、部屋が狭くなろうと、
そういう自分の家族の暮らし方の基本だけは崩してはいけないだろうと、その時気付きました。
夕焼け空の下、今は廃墟になってしまった鎮守の崩れ落ちた狛犬の横で
アーケード街を見下ろしながら、やっぱり家の真ん中に壷庭をつくることに決めました。
そして、その後、それを基準にしてすべてを決めました。居間などの住居部分は狭くなってしまい、
ちゃんとした客間も無いような家ですが、商店ですから、人がくれば店で話をしてますし、
両親はこの家に満足しているようです。

長くなりついでにもうちょっと話すと、この家は、もともと真ん中の壷庭をはさんでお店のある
表が2階建て、母屋のある裏が3階建てでした。木造の3階建てです。
しかし、家業が傾いて来たために、私が生まれる前に裏の3階は他人の手に渡ってしまい、
広かっただろう庭には仕切りの塀が作られていました。
今回老朽化を理由に、この他人の手に渡った3階も取り壊し駐車場になりました。
父が小さい頃には、まだこの木造3階はうちのもので、曾祖母らが3階の座敷で映っている写真も
あるのですが、この3階というのが、サンルームのようにガラス戸が入っていて、
私は一度そこに行きたくてしょうがありませんでした。
曾祖父の時代は、茶懐石などもそこでやってたなどという話を聞かされた日にはなおさらでした。
でも、そこを買い取った人の家とは仲があまり良くなくて、私は一度もその3階には行けぬまま、
家の最後を看取ったのです。
しかも、家を壊す時、持ち主からいろいろ難癖を付けられ、
結局裏の3階の解体費用と駐車場にする費用は私が出しました。本当に私が最後を看取りました。
そんなこともあったからでしょうか、私の密かな野望の中には、ゆくゆくは裏の土地を買い戻して
3階木造を建ててみたいというものもあったりします。

原体験としてこんな住宅体験をしているために、
私はどうしても昨今のフローリングのマンションは
買う気になれず、東京で築40年の賃貸ボロマンションに住んでいます
(地震が来たらかなりヤバいです)。←今本当にヤバいことになってます!どうなる私!
そのかわり都心なのに周りの環境は最高です。春は近くで桜が舞います。

さらには、「木造4階建てマンションを建てて母子家庭向けの格安NPO不動産をやって、
そこの最上階に住むんだあ」とか、「やっぱり日本の家には借景が必要なのよ」とか、
贅沢かつ妄想めいたことを日々口にして、たぶん、多くの人にあきれられています。
でも、できる事ならばいつか、日本の風土に合った本当に心地よい家というものを作ってみたいです。
自分のためでなくてもいいし、高価なものである必要もありません。

妄想ついでに、最後にだめ押しすると、
今回住宅ローンモラトリアムを申し込んでまで、私が今の仕事を辞めて新しい道に進むのは、
以上のような野望を達成するための一歩という意味も無くはないのです。

(最後ちょっと略)

転載ここまで>>>

1年前にこんなことを書いていました。
その後1年間、会社に行く代わりに、地元の町で暮らし、地方に行き、いろんなことを考えました。
冬からは、実験的に「火鉢カフェ」を開催し、まだ少しですが、理解して下さる方も増えてきました。
このへんで、本格的な活動を開始しようと思っています。
このところ、あらためて「炭」のスゴさも実感していますし。

具体的な活動の告知をしていきますので今後ともよろしくお願い致します。

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